19ページ 松尾鉱山資料館だより。 問い合わせ先。 松尾鉱山資料館。 電話番号は、78-2598です。 ヤマの母の手で営まれた「つくし保育園」 週に1度の読み聞かせや折り紙遊びが始まり 松尾鉱山にあった「愛児会つくし保育園」の始まりは、昭和28(1953)年頃にさかのぼります。 松尾鉱業株式会社厚生課の女性社員が、事務所周辺の幼児を集会所に集め、週に1度、紙芝居の読み聞かせや折り紙をして遊ばせていたことがきっかけでした。 「子供会」と呼ばれるようになるこの活動は、各住宅地区に広がりました。公立幼稚園の設立を願う声が高まると、お母さんたちの奮闘が始まります。 お母さんたちは時間を見つけて会合を開き、旧松尾村役場に足しげく通って思いを訴えました。また、会社にも助けを求めました。 当時の飛田忠英(とびた ちゅうえい)厚生課長は知恵を絞り、浴場用の石炭や薪を集会所でも使えるよう手配しました。これにより、「子供会」の活動は支えられました。 就学前に保育を 統一的な子供会が発足 財政事情などの課題のため、村立幼稚園の設立はかないませんでした。しかし、昭和32(1957)年、お母さんたちの手で統一的に運営する「子供会」が発足しました。発足時には360人が入園しました。 子供会は4カ所の集会所に分かれ、就学を控えた幼児が1年間、週3日の保育を受けられるようになりました。また、村からの助成により専任保育士を採用するなど、保育体制も整えられました。 子供会は、その後、「愛児会つくし保育園」と改称しました。 昭和37(1962)年6月には、念願だった週6日、松尾鉱山小学校の旧校舎1カ所での全日制保育が実現しました。 しかし、安い保育料と助成金だけでは運営が厳しい状況でした。お母さんたちは廃品回収のほか、山菜加工工場や食堂を開き、その収益を保育園の運営に充てて支え続けました。 こうした懸命な努力が実を結び、昭和42(1967)年4月に保育園は公立化しました。念願の「松尾村立緑ヶ丘保育所」へと生まれ変わりました。 写真の説明。子供会の発表会の舞台裏で活躍したお母さんたち。昭和32(1957)年11月9日撮影。 小中学校の統合と連携 第10回 問い合わせ先。教育総務課。電話、内線1361。 松尾小学校の開校に向け、準備を進めています。 運動着のデザインを決定 令和9(2027)年4月に開校する松尾小学校の新しい運動着を選定するため、5月21日から6月17日にかけて、松尾地区内の各小学校と各保育所で運動着の展示会を開きました。 展示した運動着の候補は6種類です。保護者による投票の結果、紙面右側に掲載した運動着のデザインに決定しました。 スクールバスのルートを検討しています 現在の松尾中学校のスクールバスルートを基本とし、新たに「新田・立石線」のバスルートを追加する予定です。 12月ごろを目途に、対象となる家庭に対し、スクールバスの乗車場所について調査を行います。登下校にかかる利便性の確保を図ります。 校章のデザインを決定 松尾小学校の校章デザインを、5月14日から6月30日まで募集しました。全国から43件の応募をいただきました。 松尾地区小学校統合検討委員会と教育委員会による選考の結果、和歌山県在住の北野公一さんの作品を、校章の最優秀賞とすることに決定しました。 松尾小学校の校章の説明です。 岩手山と八幡平をイメージした図案に、松川と赤川の流れを2本の線で表しています。また、松尾村の村花であった「さくら」の花びらを、統合する3校の数で示したものを組み合わせています。 統合する学校の子どもたちのつながりを大切にし、仲良く心豊かに、恵まれた自然の中で育まれる環境の下、支え合い、元気いっぱいに頑張る心を持って大きく成長していく姿をイメージしました。 上部の岩手山は、八幡平市の「八」を連想する図案です。地域に根付き、人々から親しみを持って愛される校章に仕上げました。