5ページ 市戦没者追悼式を開催。 終戦から81年。 平和への願いを次の世代へ。  先の大戦で亡くなった市内837柱の冥福を祈る市戦没者追悼式は10月20日、遺族など約60人が参列し、西根地区市民センターで行われました。  黙とうの後、遺族を代表して追悼の言葉を述べた大更遺族会の工藤忠義会長は「家族を心配しながら逝ったであろう父の無念さを思うと、81年という歳月が経っても、哀惜の念を忘れることはできません。私たち遺族は、戦後の苦難の道のりを振り返りつつ、幸せを感じる八幡平市の実現を目指し努力していく」と、自身が幼少のときに、異国の地で戦死した父を思い、平和への誓いを新たにしました。この後、参列者は、戦没者を悼み祭壇に花を手向け、静かに手を合わせました。  また、式では、安代中3年の石田修己さんが「平和への誓い」をテーマに作文を発表しました。市は追悼式に先立つ7月7日、安代中を会場に甘竹勝郎県遺族連合会会長を招き、講演会を開催。追悼式での発表は、先の講演を踏まえて生徒が感じたことをまとめたものです。石田さんは「戦争の記憶を持っている人の思いを後世に引き継ぐことが、私たち若い世代の使命だと感じた。戦争の恐怖や家族を失う悔しさをしっかりと受け継いでいきたい」と平和への願いを未来へつなぐ決意を示しました。 おはなしを伺いました。 工藤忠義さん。83歳。両沼行政区。 父が昭和20年にフィリピンで戦死  昭和18年3月、私が生後約3カ月の時に、父は出征しました。訓練を経て、数カ月後には異国の地に赴いたのではないかと思います。  父の死亡日は20年4月11日とされています。フィリピン・マニラ東方40キロメートルで戦死と書かれた戦死公報とともに届けられた遺骨箱には、遺骨ではないものが入っていたと聞きました。  20年ほど前、慰霊団の一員として、フィリピンでの慰霊祭に赴きました。ガイドからは、深刻な食料難やマラリア(感染症)で亡くなった人も多いと聞きました。父の戦死状況は定かではありませんが、国のため、戦いに赴いた戦地で、病気で命を落とした方がいるという話を聞くと「戦争って何なのだろう」と、言葉に表せない思いに駆られます。  父の記憶はありません。父は「子どもの顔を見よう、絶対に死なないで帰ってこよう」という気持ちだったと思います。戦後、母や祖母は大変な思いをしたと思います。もう少し早く戦争が終わっていれば、父は帰ってくることができたのにな、と思います。 注釈。「遺骨ではないもの」とは。 現地で遺体の収容や火葬を行うことができない場合、遺骨の代わりに、名札や現地の石などが入った遺骨箱が、遺族に届けられたと伝えられています。