4から5ページ 記憶をつなぎ平和を紡ぐ 節目の市戦没者追悼式を開催  昭和20年8月15日に太平洋戦争が終戦を迎え、80年が経ちました。戦争を体験した人や戦没者遺児の高齢化が進み、その記憶を受け継ぐことが課題となっています。  10月22日に行われた市戦没者追悼式には、松尾中の生徒が初めて参列。生徒代表が「平和への誓い」をテーマに作文を発表しました。  本号では、市戦没者追悼式の様子と、市内在住の戦没者遺族などのお話を紹介します。戦後80年という節目の年に、あらためて「平和」について考えてみませんか。  戦争で亡くなった市内837柱の冥福を祈る市戦没者追悼式は10月22日、遺族ら65人が参列し、西根地区市民センターで行われました。  黙とうの後、遺族を代表し、追悼の言葉を述べた安代遺族会の大森誠一会長は「どれほど、懐かしい故郷に思いを馳せ、愛しい妻や家族を思ったでしょう。父の無念さは計り知れません。戦争の無い世の中が続くことを切に願います」とニューギニア島で戦死した父を思い、平和への誓いを新たにしました。この後、参加者は、戦没者を悼み献花を行いました。  また式では、松尾中3年の渡辺鳳嘉(おおが)さんが「平和への誓い」をテーマに作文を発表しました。松尾中では追悼式に先立つ7月15日、戦争の記憶伝承事業として県遺族連合会会長を務める甘竹勝郎氏が講演を行っており、発表は先の講演会を踏まえて感じたことをまとめたものです。渡辺さんは「戦争は何も生まない。戦争が人の人生を奪ってしまう恐ろしいものだということを語り継いでいきたい」と力を込めました。 戦没者遺族の講演を聞いて 松尾中3年 渡辺鳳嘉(おおが)さん  戦後80年の今年。亡くなられた方々に心から哀悼の意を表します。  私は、今まで「戦争」というワードについて、そこまで深く考えたことはありませんでした。しかし、戦没者追悼式の事前学習ではたくさんのことを考えさせられました。  甘竹さんのお話を聞き、悲しみ、不安、怖さなど、さまざまな感情がわきました。なぜ、そこまで必死に伝えようとするのか、平和とは何かを考えました。  そして、私が考えて出した答えは「戦争は何も生まない」です。戦争は、人の命だけでなく、心も殺してしまう。だが、それは、体験した人にしか分からない。だから、体験した人の思いを、次の人につないでいくことで、戦争を起こさないようにすることが、これから未来ある私たちの役割だと思います。一人一人がしっかりと自分の思い、気持ちを伝え合い、日本人がその先頭に立っていくことが大切だと思います。  私たちは、これから戦争について関心を持ち、さらに詳しく調べ、戦争の悲しさ、恐ろしさを、自分の身近な人たちに伝えていきたいです。そして、今ある日本の平和を維持し、さらに広げていけるようにしたいです。  いま起こっている戦争を止めることは難しいです。しかし、これからの戦争を起こさせないための行動はできます。世界に戦争が人の人生を奪ってしまう恐ろしいものだということを語り継いでいきたいです。 記憶をつなぐ 私が伝えたいこと 「戦争を起してはならない」と声をあげられる大人になるように  父が沖縄で戦死父が沖縄で戦死 三浦日出子(ひでこ)さん(82歳)仲町  父の松次郎は昭和20年6月20日に、沖縄戦で命を落としました。沖縄戦の戦闘終了が6月23日でしたので、戦闘終了間際に、敵兵に追い詰められて亡くなったのだと思います。当時、私は2歳だったため、父の記憶はありません。戦死の知らせが入った戦死公報が、白い木箱に入れられて家に届いたそうです。  若かった母の今後を案じた家族の勧めで、母は4歳の私を婚家に残し再婚。私は祖父母、叔父夫婦、従弟妹の家族12人で育ちました。私は、両親がいなくて寂しい思いはしたものの、幸いにも周りの皆さんのおかげで、幸せに育てられたと思っています。しかしながら、戦争で父を亡くし、母と子でつらく苦しい思いや経験をされた人はたくさんいると思います。  1月9日に、摩文仁(沖縄県糸満市)にある平和祈念公園で岩手県主催の慰霊祭があり、私も出席しました。公園内には「高橋松次郎」と父の名が刻まれた慰霊碑「平和の礎」があり、遺骨が見つかっていない私にとっては、ここが父のお墓という思いで手を合わせました。  私にとって「戦争」は「両親を失う」ということです。二度と戦争を起こしてはならないと心から思います。  市戦没者追悼式では、中学生の発表に、涙を浮かべる遺族の姿が見られました。遺族の皆さんは「自分も体験を伝えなければならない」と、あらためて思ったのではないかと思います。子どもたちが「戦争を起こしてはいけない」と声を挙げられる大人になるように、教育現場でも、戦争の恐ろしさを教え、伝えていかなければならないと私は思います。 記憶をつなぐ 受け継いだ思い 戦争で亡くなった人が市内にもいることを伝える機会を  祖父の兄弟がテニアン島で戦死 山本雅彦(まさひこ)さん(55歳)舘沢  私の祖父は男3人、女2人の5人きょうだいの長男で、男3人は、みな太平洋戦争に召集されました。祖父は終戦間際の召集で内地にとどまり、師団のあった弘前市(青森県)で終戦を迎えましたが、3男の喜多見はテニアン島で戦死しました。  工兵だった喜多見は、パイロットだった次男の谷四郎が乗る飛行機の整備をしたいという思いを持っていたそうですが、谷四郎は陸軍の航空戦隊所属だったため、海軍所属だった喜多見は、思いを遂げられなかったようです。  喜多見は昭和19年9月2日に戦死しましたが、偶然その日に、私の祖母は子どもを生みました。祖母は、亡くなった喜多見の生まれ変わりと思い、生まれてきた子に、同じ名前を付けたと聞きました。  また、戦死の知らせを受けた曾祖母は木箱に立ち、息子が祖国のためにささげた犠牲を毅然と讃えたそうです。一方で、生前に喜多見から届いた手紙を、戦後に時おり開いては、泣いていたとも聞きました。  「拝啓 一筆申し上げます」で始まるその手紙は額に入れ、今も家に保管しています。市内には、何かしらの遺品を残されているご家庭もあるかと思います。国と国が戦う戦争は、実際には人と人とが戦います。手紙や遺品を展示していただき、戦争に市内からも赴いて、命を落とした人がいるということに、少しだけでも思いを馳せてもらう機会があれば良いですね。 戦没者遺児などが体験した記憶を次世代に伝える平和の語り部事業を行っています  一般財団法人日本遺族会は、戦争の記憶の風化を防ぎ、平和の尊さを次世代に伝承するため「平和の語り部」による講話活動を行っています。  この活動は、戦争体験者(遺族)が、自らの実体験をお話し、戦争と平和について考える機会を提供するものです。  語り部の派遣を希望する場合は、一般財団法人日本遺族会語り部事業本部(広報室)に申し込んでください。(電話03-3261-5521)、(メール koho@nippon-izokukai.jp)